35歳で経験した大病が転機 自分を何度も変えてくれた山への恩返し <山岳気象予報士 猪熊 隆之>

転機は35歳で経験した大病

──もともと大学は法学部に進学したと伺いました。どういった経緯で山岳専門の気象予報会社を設立しましたか。

天気が好きだったので、本当は理系の学部を受験して気象庁に入るような道を選びたかったんですが、数学が苦手で。でも趣味でずっと天気のことは調べてました。

振り返ってみると、天気に興味を持ったのは小学校の高学年のときです。父の仕事の都合で地元の新潟から関東に移ったんですが、関東の学校が馴染めなくて休みの度に新潟に帰りました。

その時に新潟と関東では天気が全然違うことに気がついて、「なぜ天気は場所によってこんなにも違うのだろう」と不思議に思ったんです。当時はインターネットが普及していなかったので、自分で気象台に毎日のように電話をして、色んな場所の気温や降水量といった観測データを集めました。

次第に、場所による天気の違いはどうやら地形が大きく影響していることがわかってきて、地形を考慮しながら数日先の天気を予測するのがすごく楽しくって。その後、大学で山登りに熱中してからも、実際に自分で山の天気を予測したりしていました。 そんな中、転機が訪れたのは私が35歳の時です。「慢性骨髄炎」という骨が炎症を繰り返す病気になってしまい、日常生活すらもままならなくなってしまったんです。大好きな山登りもできなくなるかもしれない。

当時、慢性骨髄炎は一生治らないとも言われてたので、務めていた登山専門のツアー会社で働きつづけることも難しくなりました。入退院を繰り返すうちに「自分はこの先一体どうやって生きていけばいいのだろう」と思い悩みます。「手に職」じゃないですけど、仕事に生かせるスキルがなければ、この先どこも雇ってくれないだろうという危機感がありました。

「自分が仕事に生かせるスキルって何だろう」と考えた時に、子どものころから好きだった「天気」のことを思い出したんです。これだけ好きな天気のことであれば、他の人に負けない仕事ができるんじゃないかと。

登山のツアー会社に務めていた当時は登山自体が流行っていたこともあり、登山中の気象遭難が多かったんです。山岳専門で気象予報ができれば、少しでも気象遭難のリスクを軽減できるかもしれない。

自分にたくさんの出会いを与えてくれたり、素晴らしい景色を見せてくれ、自分を変えてくれた山に恩返しができる。そんな思いから気象予報士の資格を取得し、「ヤマテン」の設立に至りました。
──山岳気象予報の仕事では、どんなときに喜びややりがいを感じますか。

いろいろありますが、以前NHKの世界各地を代表する名峰を描き出す「グレートサミッツ」という番組で、エベレストの天気予報をした仕事は印象的でした。エベレストの山頂からの景色をハイビジョンカメラで撮影し、その絶景をお茶の間に届ける。できるかぎり晴れる可能性が高い日を狙う必要がありました。

私は現地に同行せず、遠隔での参加。撮影隊から逐一、現場の天気を教えてもらいながら予報の精度を高めていきます。その撮影隊にとっては、ハイビジョンカメラで撮影することが目的なので、晴れなければいけない。

実際、撮影隊には10日以上待ってもらいました。その分私のプレッシャーも高まります。晴れる日を待っている間にも、「登れる日」はあったので、他の登山隊はどんどん登頂して、ベースキャンプに戻ってきて、ドンちゃん騒ぎをしているんです。

撮影隊は仕事としてエベレストまできて、何日も待たされるわけですから、ストレスやピリピリとした雰囲気がだんだん自分にも伝わってきます。離れた場所にいる自分さえも一緒にその場にいるチームの一員になったような感覚になる。

▲天気の悪化やその兆候を示すような雲は覚えておきたい。例えば強風時に出現する「旗雲」が見えるなら、登頂は控えた方がいい

結果的には予報が的中し、「すごい映像が撮れました」とか「最高の登頂シーンでした」といった感謝の言葉をいただきました。そのときに「自分もチームの一員として一緒にいい仕事ができたな」という喜びと達成感を味わえました。

ここで触れたように、遠隔で予報することもありますが、現場に同行して予報を出すことも大事にしています。やっぱり現地で、自分の目で見て観察しないとわからないこともたくさんありますから。気象に関わらず、自然科学の分野ではまだ解明されていないことがたくさんある。それを探求していく面白さがあると思います。

──最後に、今後の展望について教えてください。 今は世界的にも有名で高い山での予報依頼が多いですが、国内の山でも現場からの予報を増やしていきたいです。国内の山を巡りながらお客さんと天気に関する「雲談義」をしたり、ゲリラ的に全国を回りながら山の天気予報を出したり、山岳天気予報でもポイントとなる「雲」について、多くの人と語り合いたい。そうすることで少しでも気象リスクを減らして安全な登山につなげたいです。

国立登山研修所の専門調査員と講師も務めている中で感じることがあります。最近は組織に属さずに個人で登山を楽しむ人が増えているんです。個人での登山を否定するわけではありませんが、残念ながら事故も増えてきています。

まずはその原因を詳しく調査して再発防止策を考えたり、山岳会といった組織に属することのメリットも伝えていきたいです。個人でも登山に関連する知識を学ぶことはできますが、実践する場が少ないです。加えて、知識を活用するためには複合的な理解も必要です。

例えばファーストエイドの知識があったとして、いざ現場で低体温症の症状が発生している人がいた場合に、症状を和らげるためには気象の知識が必要になることもあるんです。一つ一つの知識を身につけることは大事ですが、色んな要素が絡み合ってきます。

事故を減らすためには複合的にリスクやトラブルに対処していかなければなりません。知識を実践で使えるようにするためにも、山岳関連の組織が開催している講習会や実践セミナーをうまく活用してもらえるような働きかけをしていきたいです。

PROFILE

山岳気象予報士 / 猪熊 隆之(いのくま たかゆき)

1970年生まれ。全国330山の天気予報を運営する国内唯一の山岳気象専門会社「ヤマテン」の代表取締役。中央大学山岳部前監督。国立登山研修所専門調査委員及び講師。チョムカンリ(チベット)、エベレスト西稜(7650mまで)、剣岳北方稜線冬季全山縦走などの登攀歴がある。2019年以降は、エベレスト(8,848m)、マナスル(8,163m)、チンボラッソ、コトパクシ(エクアドル)、マッターホルン、キリマンジャロなど予報依頼の多い山に登頂し、山岳気象の理解を深めている。「山頂で観天望気」や日本山岳会の「山の天気ライブ授業」など全国各地の山で、空を見ることの楽しさ、安全登山のための雲の見方などを発信している。

Text:Nobuo Yoshioka
Photo:Matthew Jones