ストリートシーン&カルチャーのトップを走る5人が「時代の変化」を熱く語ったトークセッション

アウトドアのみならず、ストリートシーン&カルチャーとの親和性を持つコロンビアのウェア。そこで今回はBMX、ブレイクダンス、DJ、ヒューマンビートボックス、ダブルダッチという5ジャンルのトップを走るプレイヤーたちを迎えて開催されたトークセッションの模様をレポート。さらに、5人それぞれがコロンビアのウェア&ジャケットなどを着用して披露したコーデスナップもお届けします。

1980年代から90年代初頭、さまざまなヒップホップアーティストたちがコロンビアのウェアを着用し、ミュージックビデオなどに登場。コロンビアのウェアはアウトドアのみならずストリートシーンでも親和性が生まれ、ストリートカルチャーを好む人たちにも愛されてきました。今回のイベントではBMX、ブレイクダンス、DJ、ヒューマンビートボックス、ダブルダッチというストリートカルチャーの5ジャンルにおいて、日本の最前線で活躍するプレイヤーたちを迎えてトークセッションを開催。情報収集にはSNSが不可欠になった今、“時代の変化”をテーマに語っていただきました。 ※この記事は、CSJ magazineで2019.11.18に掲載された「ストリートシーンのトップを走る5人が「時代の変化」を熱く語るトークセッション」の内容を再編集し、増補改訂したものです。(着用ウェア、掲載商品は取材当時のものとなりますので、一部取扱がない場合がございます。)

▲写真左から、KO-YAさん(ダブルダッチ)、TATSUYAさん(ヒューマンビートボックス)、IKUさん(DJ)、STEEZさん(ブレイクダンス)、田圓尚人さん(BMX)。

▲YUIさん(MC)

ストリートシーンのトップランカーたちが今の活動を始めたきっかけ

──まずは皆さんがストリートシーンで今の活動を始めたきっかけを教えてください。 田圓さん「僕は小6まで引きこもりだったんです。毎日家でゲームばかりしていました。人と話すのが嫌い、運動が大嫌い。中学生になった時、唯一の仲良しの幼なじみがハマっているというBMXのビデオを見せてくれたんですが、それがめちゃくちゃカッコ良くて。その中に出ていた田中光太郎というスーパースターにシビれちゃった。それで“俺、この人みたいになる!”と決めて、BMXを始めたんです。田中光太郎さんが俺の人生を180度変えてくれたと言っても過言じゃないですね」

▲現在は神奈川県寒川町でパーク施設を共同経営し、そこで練習に励む田圓さん。

STEEZさん「僕がブレイキンを始めたのは2005年くらい。最初は“めちゃイケ(めちゃ×2イケてるッ!)”の岡村隆史さんを見て興味を持って、大学に入ってダンスを始めました。始めたら高校の先輩とかいろんな人と繋がって、それで面白くなっちゃった」

▲世界最高峰ブレイクダンス・バトル『Red Bull BC One』の日本代表にもなったSTEEZさん。

IKUさん「高校までずっとサッカーをやっていて、Jリーガーになることしか考えていませんでした。でも、高1のときに大きな怪我をしてしまって、初めて人生の挫折というものを味わった。“サッカーを取ったら何も残らないな”とかなり落ち込みましたね。進路を決める時、サッカー選手はもうダメだしどうしようかと考えて音楽だけは人よりも多く聴いているなと思い、音楽関係の専門学校の体験入学に行ってみたんです。そしてその時にもらったパンフレットの中に、イベントのチケットが1枚付いていました。内容がよくわからないまま、どうせ暇だからとそのイベントに行ってみたら、DJバトルの世界で一番大きな大会・DMCのジャパンファイナルだったんです。その時に初めてきちんとDJを見たのですが、バトルだったので対戦相手を翻弄させるそのスタイルが、自分がサッカーをやっていたときのポジションのトップ下と何か通じるところがあるなと感じました。それで興味が沸いて……というのがきっかけですね」

▲世界最高峰DJバトル大会『Red Bull 3style WORLD FINAL』日本代表で出場(2010年)、現在ではアクションスポーツやカルチャー系の現場でもDJ活動を行うIKUさん。

TATSUYAさん「僕は高校生くらいの時に登校拒否みたいになった。いじめとかではなくて、死ぬのが怖いというか。うーん……自分は何のために生まれてきたんだろうと、存在価値を見つけられなくなったというかね。それで考え付いた目標が、歴史に名前を残すこと。ただ、高校生だったので何で残すかはまだわかりませんでした。それで20歳の時にヒューマンビートボックスのパフォーマンスを生で見る機会があって、“あれ? これまだやっている人がいないんじゃない? ワンチャンあるかも”って。それがきっかけでビートボックスを真似するようになった。“狭い人数から結果残して、頂点目指して世に出ていこう!”みたいな感じでスタートしました」

▲アーティストとしてさまざまなイベントに参加する傍ら、日本ヒューマンビートボックス協会の代表理事も務めるTATSUYAさん。

KO-YAさん「日本体育大学に入学して、同じクラスの子に“ダブルダッチのサークルに仮入部したから一緒にどう?”と誘われたのがきっかけ。でも、特別に興味があったわけでもないから入部を迷っていたんですが、新入生歓迎会に参加しちゃって。その宴会の席で、今も仲良くしている先輩に“俺、オマエみたいなヤツ、嫌いじゃないから”って言われたんです。当時、僕は先輩たちに生意気だとか言われていたから、その一言がとてもうれしくて。それで入部を決め、ダブルダッチの世界に入りました」

▲ダブルダッチの世界大会で、前人未到の3連覇(2017年〜2019年)という経歴を持つ『REGSTYLE』のリーダー・KO-YAさん。

▲現在もダブルダッチを続け、イベント出演や大会審査委員などでも活躍しているTATSUYAさんも来場。

今だと意外? ストリートシーンで流行っていたあの頃のファッション

──始めた当時のファッションはどんな感じでしたか? IKUさん「当時、周りのみんなの優先順位の1位はレコードを買うことでした。俺もまさにそうだったし。服を買う時は、“この金額ならレコード何枚買えるかな”って計算しちゃったり。第一線で回している人たちは、ラップTを大きめに着ていることが多かったかな。俺たちはベースボールキャップを真っすぐかぶる、左に寄せる、右に寄せるとか、そういうので盛り上がるくらい(笑)。まあ全体的にダボダボ系でしたね」 田圓さん「ビッグサイズを着たいんだけど、自転車にTシャツやパンツが引っ掛かっちゃって危険だからあまり着られませんでした。テクニックのある人は、ビッグサイズを着ていてカッコ良かった。大会に行けば、ピチピチのスポーツタイツを履いた超スポーティーな格好の人もいたし、シャツにスラックスでハットを被っている人もいたりで、十人十色な感じだったかな」 TATSUYAさん「ビートボックスも十人十色な感じですね。僕は元々、アパレルのデザイン学校に行っていたんです。さっき話しましたが歴史に名前を残すことを模索していた時代で、自分のブランドをやろうかなとも思ったりしていたので、あまりヒップホップ・ミュージックのファッションには興味がありませんでした。どっちかというとモダンなハイストリートとかアバンギャルドとか、ちょっと変わったファッションが好きでしたね。それでクラブのライブなんかに行くと、出演者やお客さんはコテコテのラッパーみたいな格好の人がほとんどだったので、“なんだあいつら”みたいな感じでかますというのが自分の中の楽しみでした(笑)。あえて服装を合わせないでいったところはあるかな。あとAFRAさんのファッションがスタンダードだったという印象がありますね。アウトドアやフェスでヒップホップする人たちのファッションというか……」 STEEZさん「ブレイキンは、70年代や80年代のファッションをそのままやっている人が多かったかな。ただ中にはあまりファッションを気に掛けてない人も多くて、僕はそれを超ダサいと思っていました。生意気ですけどね。ダンスはカッコいいのに見てくれは気にしていないなと。僕自身は海外のB-BOYを参考にしていました」 KO-YAさん「ダブルダッチのファッションって“こう!”っていうものはないんですね。元々はニューヨークで女の子が始めたカルチャーなんですけど、現地では男女ともわりとぴっちりしたものを着ていたりするんです。ダボダボのストリートファッションなのは日本独特かも。海外の人から“そんなダボダボな服を着ていて飛びにくくないの?”と言われたことがあるし(笑)。俺が始めた頃の印象は、B-BOYカルチャーの服装を取り入れている人が多かったかな。汚い格好も多かった。雑にタオルを巻いたり。あと、下ダボダボで上はMサイズみたいな人もいましたね」

▲入場者の3人は、ダブルタッチ・KO-YAさんの大学サークルの後輩。現在もダブルダッチのチームに所属して活動しているそう。